2009年08月17日

陸上は「ダラダラ」がいい

 どうやら世界陸上が始まっているらしい。このところテレビを見る機会が少ないので、全然気付かなかった。
 元陸上部だったのでよく分かるのだが、陸上は実際に競技場に行って見るのとテレビで見るのとではかなり勝手が違う。編集も解説も入らない生の競技場は、いたるところで競技が行われていて、しっかり見ていないと何がどうなっているのかよく分からなくなってしまう。
 さすがにトラックは一時に一つの競技しか行わない。百メートルと五千メートルを同時にやったら、さすがに混乱するだろう。
 しかし砲丸投げと走り高飛びを同時に行う、なんてことはよくあるし、隅っこのほうで走り幅跳び、三段跳びといったフィールド種目が細々と進行している様は、よく目にする光景だ。

 実際の競技とテレビとではリズムが違うので、どうもうまく馴染めない。別にどちらが良い悪いという問題ではなくて、単純にリズムが違うからうまく乗れないのだ。
 テレビはうまく編集されていてどの種目も小気味良く、本来は遅々として進まない種目であっても、懇切丁寧な解説と共に楽しんで鑑賞できる。だがその反面、ついダラダラ何時間も見続けてしまうという欠点もある。
 しかしまあ実際に足を運んだとしても、ゆったりと流れる競技場独特の雰囲気に後押しされながら、観客席の椅子に座ってコカ・コーラでも飲んでノンベンダラリ鑑賞するのがオチなので、どちらも大差ないのかもしれない。
 練習も本番も、どこかダラダラしているのが陸上の醍醐味でもあるんです。いや、本当に。
 
posted by タチバナ at 01:17| 心理

2009年02月14日

冤罪5秒前

 1ヶ月くらい前に、はじめて警察官に職務質問をされた。ずっと前から職務質問を受けてみたいと思っていたので、念願がかなったことになる。
 男子たるもの危険なオーラを振りまきつつ、尖って街を闊歩するくらいがちょうどいいような気もするし、別に悪いことなんてしていないのだから(本当にしていません)、質問されたからといって困ることは何もない。

 夜の12時頃、飲みに行った帰り。駅から自宅へ歩いていたところをバイクに乗った警察官に呼び止められた。「やっとこのときが来たか!」と思いつつ話を聞いてみると、どうやら近所でおきた事件の犯人と私の特徴が似ているらしい。
 こうなると事情が変わってくる。私はオーラとか、身に纏った雰囲気で「あいつは危険だ」と思われたかったわけで、実際の犯人と特徴が似ているのでは、完全に犯罪者扱いである。
 身分証明書を見せたりして待つこと数分、パトカーが現れた。どうやら被害者を乗せていて、私が犯人かどうか実際に見てもらおうということらしい。


続きを読む(ちょっと長いです)
posted by タチバナ at 00:17| 心理

2008年10月18日

『まだらの紐』について

 今日の昼ごろ、ケーブルテレビでシャーロック・ホームズの『まだらの紐』をやっていた。あらすじはウィキペディアを読んでもらうこととして省略。

 依頼者の姉が死際に「まだらの紐……」という言葉を残すのだけど、これは以前からかなり気になる一言として私の頭にずっと居座っている。
 命が尽きようとしているときの、ほんの僅かな時間に「まだらの紐」という言葉が出てこようとは。昔の人は言うことが雅である。私だったら「色が色々で、ウネウネしたやつ」とか言ってしまいそうだ。
 そういえば、タイタニック号の生存者のインタビューを読んだときも同じようなことを思った。冷たい海水が体に触れることを「幾千もの針が刺さっているようだった」と表現していたのだが、そんな知的な言い回しができる現代人がどれほどいるだろうか?
 「めっちゃ冷たくて、ザーッて水が入ってきたんすよ! これマジっすよ」とか、今だったらこんな感じだろう。

 まあヴィクトリア朝時代の紳士はちょっと肩に力が入りすぎているような気もするし(実際にはどうだったのだろう?)、現代のほうが力が抜けて割りに楽かもしれない。どちらのほうがいいかなんて、単純には決められないですね。

 大体においてダイイング・メッセージはわかりにくいものだけど、それにしても「まだらの紐」なんてややこしいこと言わないで、「蛇」とだけ言えば事件はもっとスムーズに解決したような気もするのだが。まあそれじゃあ面白くないわけだけど。
 『まだらの紐』はいろいろ矛盾点が多く、実は真相は別のところにあるという見解が一般的。シャーロック・ホームズの謎解きに関する本はかなり出版されているので、色々裏事情を知ることができてうれしい。シャーロキアンじゃなくても楽しめます。
posted by タチバナ at 21:00| 心理

2008年10月12日

ひとこと多いんだってば!「ヘアカット編」

 「ドラッグ・ストア編」に続き、ひとこと多いシリーズ第二段。今回はヘアカット――つまり美容室または床屋バージョン。

 今のところ薬を買う機会はそんなにないので、ドラッグ・ストアはさほど苦にならない。しかし髪は絶対に伸びるものだし、私みたいにショート・ヘアの人間は1ヶ月か2ヶ月に一度は切らないとどうしようもない髪形になってしまうので、切りに行くことになる。
 大人になると風呂と散髪が好きになると聞いたことがあるが、私に限っては今のところ散髪が好きになる兆候はない。風呂は前から好き。

 さっきも述べたように私はショート・ヘアで、ここ数年はずっとそうだ。だから髪を切るときには、もれなくショートを頼むことになる。
 それなのにほぼ毎年、この夏から冬にかけての寒くなる時期になると、「これから寒くなるのにショートですか」と言われる。はっきり言って、誰がなんと言おうと余計なお世話である。
 「寒くなる→髪を伸ばす」というくだらない二段論法が気に入らないし、だいたい客の注文に異を唱える必要がどこにあるというのか。夏にラーメン屋でラーメンを注文して、「こんなに暑いのにラーメンですか? 冷やし中華じゃなくて?」と言うようなものである。
 美容室で交わす会話の90%以上は無益なのだから、いっそのこと100%無駄話にしてしまえばいいのだ。妙に懐をさぐるようなコメントをはさむよりはずっといい。
 私個人の経験として、独立が視野に入ってきた美容師ほど、こういう心無い発言をする確率が高くなる。具体性を欠いた中途半端な野心を持っているから、引くことができないし、かといって押すこともできない微妙なラインに落ち着いてしまうようだ。
 身に覚えがあるから気持ちは分かるのだけど、それでも客商売なのだから、自分を抑えることを覚えてほしいものである。

 私にとって心地よい美容室が見つかる日はくるのだろうか? 今まで行った美容室だって、誰かにとってはとてもすばらしい店のはずだ――たぶん。ならば私にだって、という希望。
 いずれにせよ、定期的に髪を切らなければならないので、その日がくるまで私の美容室放浪記は続くのだ。チャンチャン。
posted by タチバナ at 13:25| Comment(0) | 心理

2008年10月07日

ひとこと多いんだってば!「ドラッグ・ストア編」

 医師からもらった処方箋を持って薬局に行ったのに、そこでまたいちいち質問されるのだけど、あれはなぜだろう? 答え如何で処方を変えるわけでもないだろうに。薬剤師業界で決まっていることなのかもしれないし、無意味に思える質問の中にも重大なことがあるのかもしれないが。

 私はメガネをかけていて、プラス軽いドライアイでもある。普段は何も感じないが、読書中あるいはパソコン作業中に、油断していると目の乾きを感じることがある。その程度。
 一般的にドライアイはコンタクト・レンズをしている人に多いというイメージだが、実はそうとは限らなくて、裸眼でもメガネっ子でも乾く人は乾く。今はそういう時代。

 眼科でドライアイと診断されると、目薬を処方してくれる。いろいろパターンがあるらしいけど、だいたい「マイティア」と「ヒアレイン」の2タイプを渡されることが多いみたいだ。私もそう。
 こういった経緯で、処方箋を持って薬局に目薬をもらいにいったのだが、はじめに書いたようにそこでまた何かしら聞かれるのだ。もちろんすべての会話が無駄というわけではなくて、用法・用量の説明は必要だし、薬局側からすれば私はお客だから(しかも常連になる可能性もあるのだから)、それなりのコミュニケーションはあってしかるべきだろう。
 「ドライアイですか?」くらいなら答えようもあるが(そうです)、「どのくらい乾きますか?」など返答が難しいことを聞かないでもらいたい(前日の豆腐くらい、とでも答えればいいのかな?)。前に行った薬局では「あなた、メガネなのにドライアイなんて、変ですね」と言われた。はっきり言って余計なお世話である。だいたい「変」という言葉が気に入らない。ひとこと多かったがために、その薬局はお客を1人失うこととなったのだ。チャン、チャン。

 未然にミスを防ぐために、むこうだってわざわざヒアリングしてくれているのだろうから、あまり煙たい顔をするのは悪い気がする。しかしながら人と人との会話が生まれる以上、ひとこと多かったりお客を不愉快にしてしまう危険をはらんでいる。薬局は接客業だ。薬剤師に限ったことではないけれど、最後には資格より人柄や人としてのニュアンスが大切なのかもしれない。
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2008年08月16日

勉強しなさい! という親

誰でも一度は親に「勉強しなさい!」と言われたことがあるかと思う。もちろん私もだ。だいたい、小学校から中学校の間に言われることが多い。
私がアルバイトをしていた高校生のとき、一緒に働いていた先輩(かなり年上)の子供が、「勉強しなさい!」年代に突入した。
「どうやったら子供が勉強するようになるんだろう?」と相談されたのだが、なかなか難しい質問である。

でも一番の解決法は、自分(親)が勉強することではないか、と私は以前から考えている。少なくとも、家に本がなければ子供は読書家にはならないだろう。自分はテレビばかりみているのに、子供には勉強しろというのは、ちょっと違うのではないかと思う。
医者の子供は医者になり、肥満の親の子供は肥満児になる――とは限らないけど、その確率は高い。勉強家の親から勉強家の子供が生まれるとは限らないが、少なくとも確率は高くなる。
確率という言葉に抵抗があるなら、「可能性」や「選択肢」と言い換えてもいい。低いよりも高いほうが、狭いよりも広いほうが、ずっと好ましいと思えるはずだ。
「勉強しなさい!」とうるさく怒鳴るより、静かに本を開くこと。よほど子供にとって好影響だと思うのだが、どうだろう。

まあ、子育ての経験がない私が言ったところで、まさに絵に描いた餅、机上の空論だ。でも私は思うんだけど、もし私が子供の頃に、テレビがついている時間が実際の半分だったら、もっと日々の生活から学ぶことが多かったのではないかと感じている。もっと文化的だったのではないかと。
あくまで予想なので、効果があるかどうかは今のところ謎だ。

と、こういうことを言ったら、「なるほどねぇ」と妙に納得されてしまった。できるだけ実践してみるとのこと。昔から物事に対し、すぐにアクションを起こす人だった。それが理由かは分からないが、いつもなにかしら食べていて、燃費の悪い人だと思っていた。いずれにせよ、行動的なライフスタイルはいまだ健在みたいだ。
さて、どういう結果になることやら……。でも悪影響はないと思いますよ、絶対。

「これからは英語がしゃべれなければいかん!」という信念から、何十年と英語を学び続けたけど、結局マスターすることはできなかった、ある男。しかし彼の息子は外交官になり、娘は海外の大学で、英語で教鞭をとるようになったとさ、という話を思い出した。誰かは忘れたけど。親が子に教えられることって、こういうことなのかもしれない。
posted by タチバナ at 13:58| Comment(0) | 心理

2008年07月30日

批判エナジーと実りのある時間

 山本モナ&二岡智宏の不倫騒動のとき、フジテレビに苦情/批判のメールや電話が1000件以上もあったとか。単純に考えると、これは1000人以上の人が、わざわざテレビ局に電話したりメールを書いたりといったアクションをとったということ。こう考えると、なんかスゴイ。
 私の感覚では、自分に影響が及ぶとき(またはその可能性のあるとき)しか、電話やメールで異議を申し立てるようなことはしないだろう。それも電話一本、メール一つでどうにかできる場合に限られている。大抵の場合、問題を処理するには解決できるだけの権力をもったところ(たとえば裁判所)に、順序だてて要求する必要があるはずだ。
 不倫を肯定するつもりはないけれど、モナと二岡がどんな関係だろうが別に構わないし、沢尻エリカの態度が悪くても特に気にしない。彼/彼女が私に何かをしたわけではないから。

 電話にしろメールにしろ、苦情や批判をするにはかなりのエネルギーが必要なはずだ。世間の人は自分と関係のないところになぜそれほど労力を使えるのだろう。決して皮肉ではなく、本当にスゴイと思う。そんなパワーが欲しい。
 正直、私は自分のことで手一杯だ。まあ、こうやってブログを書く時間はあるし、それなりに自由な時間を捻出することはできているけど、それでも自分の手から離れている議論に首を突っ込む余裕はない。時間ばかりが費やされて、最終的にどこへも行けないことが多いし。夕飯に何を食べるか考えるほうが私には重要だ。
 それに人を批判するということが、私にはいまいちピンとこないのだ。前述したように、芸能人の発言、行動が一般社会に迎合しなくても困らない。私がどんなふうに感じても、それはあくまで個人の意見。立場の数だけ、人の数だけ意見がある。
 当たり前のことだけど、色々な人がいて世界が成り立っている。ちょっと気に入らないから、行動の一部が非常識だからといって否定すべきではないはずだ。人は誰しも多面的な存在なのだし。

 苦情や批判を含め、様々な意見を取り入れことにより、世界は少しずつ良くなっていくのかもしれない。でも、できることなら私は、その中でもポジティブなエネルギーを持ったグループに属したいと願う。そのために自分の時間を使いたい。
 「アレはダメ、コレもダメ」というエネルギーよりも、「アレのこんなところがイイ、ココがさらにスバラシイ」というエネルギーに触れるほうが、多くの実りを得ることができると思うから。
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2008年07月08日

脳の掘り起こし

日常生活で考えることはパターン化されていることが多いので、意識的に脳内の記憶を掘り起こす作業が必要らしい。
どうでもいいようなことに思えても、とりあえずやってみること。その心意気が大切。
ちょっと前に(今でもかな)流行った「脳トレ」みたいなもの。別にDSを使わなくても紙とペンがあればできます。

抽象的な、または考えていておもしろそうな質問を自分で作って、それに対して答える。思いついたものを、一気に書く。1つの質問に5分以上かけないこと。
あまり続けるのは大変なので、1つにつき10前後の答えがちょうどいい(ような気がします)。
深く考えず、言うなれば適当に。
では。


問1:なんとなくカッコイイと思えるカタカナ語
シトロエン、ハイネケン、フィラデルフィア、パティー、オセアニア、ゴライトリー、カラマーゾフ、ナックル、ポロリ、コバーン、スフィア、ノモンハン

問2:なんか嫌だな……という言葉・仕草など
ゆがく(そうめんを――、など)
つっかけ
ふかす(芋を――、など)
ポケーっとしてからに
さっぱりわかりません(無条件でイラっとする)
口を大きく開けて、手を叩きながら笑う
「〜じゃないですか?」(私って、そういうところあるじゃないですか? など)
イカチー(いかつい)と言うギャル男
無理矢理な子供の名前(騎士⇒ナイトなど)
手をあてずにクシャミをしたくせに、その後「へへっ」という顔をする

問3:なんとなくカッコイイと思える英単語
cicada、mess、spill、distortion、beer、withdraw、recoil、sarvant、December、wonder

問4:なんとなく気になる、あの人のアレ(悪いと言っているんじゃないですよ。魅力になっている場合もある。)
高橋真麻の鼻
竹内結子の鼻
イチローのインタビュー(なんかムズムズする)
寺島しのぶの歯茎
『笑っていいとも!』におけるピーコの発言後の空気
菊地凛子のポジション
高木美保のリアルな性的視線
岩城滉一の流し目
大竹しのぶの髪形……あとはちょっと、ここには書けないです。


ふう。
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2008年06月09日

古き良き時代

携帯電話のなかった時代の恋愛事情。ヤフーのトップページで紹介されていました。

携帯電話が存在しない時代に、恋多き青春時代を過ごした方々へ質問です。

携帯電話が普及しはじめたのは、たしか私が高校生になってからだったと思う。卒業アルバムを開いてみると、高校1年のときの写真に、とてつもなくデカイ携帯電話で合格を知らせている友人の写真を発見。
ちょっと笑ってしまいましたね。昔は無線機みたいなのがありました。

知恵袋の回答にあるように、十円玉をたくさん握って公衆電話で話したり、連絡がとれずにすれ違ったり。
秘密の会話はやっぱり手紙だった。女子は手紙をものすごく凝った折り方をしていた。男は大抵そんなことに疎いから、一度解くと元に戻せなくなってしまう。
手渡すとき(渡されるとき)の緊張感。いや、なつかしい。
友人ともなかなか連絡が取れないことも日常茶飯事。
連絡がとれないときの、あのモヤモヤ・ジクジクとした感覚は、携帯電話が広まった今ではなかなか味わえなものなんじゃないか。

「古き良き時代」という言葉は、あまり好きじゃない。単なる私の勝手なイメージでしかないけど、この言葉は過去に捕われたような、未来を否定したような印象を受けるから。自分の体験したことがすべて、といったような狭い世界観を漂わせてしまう気がする。なんでも古ければ良いというものではないわけだし。
でも携帯電話のない時代の恋愛事情は、確かに「古き良き」だと思う。

今の学生達は手紙だとか十円玉を握って公衆電話に行くだとか、そういうことを経験できないのだな、と思うとちょっとかわいそうな気がする。あれはなかなかいいものですよ。まあ当時は必死だから、いいものだとはなかなか思えなかったですけどね。
いずれにせよ、現在は携帯電話があり、電話ひとつメールひとつで誰とでも繋がることができる。携帯電話、インターネット、ゲームなどに慣れ親しんだ世代がこれから活躍することになる。選択の余地なく。
私の世代はちょうど中間といったところか。どちらにも合わせることができ、どちらの世界観もよく分かる。お得な世代かもしれない。
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2008年03月28日

くまだまさしに小宇宙を感じることについての考察

前回、くまだまさしに宇宙(小宇宙)のような独特の世界観を感じる――と書いたんだけど……。
どうやら私ほかの人はあまりそうは感じてないようだ。
まあ、さもありなんといった感じか。

なぜか私はくまだまさしとか、なかやまきんに君だとか、あと江頭2:50とか、ああいう芸風をおもしろい! と感じてしまう。
もちろん、ほかにもおもしろいと思う芸人はたくさんいるし、前述のような裸芸タイプ? ばかりが好きなわけでもない。

そこで、理由を自分なりに考察してみると――考察というほとではないけれど――たぶん私が「くまだまさし(ほか数名)的要素」を持っていないからではないか? という結論に達した。
私は彼らのように勢いで人を笑わせることができない。つまり「はじける」ことができない。かっこつけているわけではなく、もっと単純に言えば、ノリが悪いのというだけかもしれない。
だから、内心彼らがうらやましいのではないだろうか、と思う。

人は自分が持っていないものを欲しがるという。隣の芝生は青く見えるし、ないものはねだる。
後天的に身につけることができるものはたくさんある(ほとんどのものはそうだとおもう)が、先天的にしか身につかないものだってもちろんあるし、そういうものに限って人生を大きく左右したりする。くまだまさしをおもしろいと感じるのは、私が先天的に授かった特性のおかげなのだろうか? なんて考えたりした。

それにしても、彼らは大変だ。日常的にああいう芸風で人を笑わせるのは、心身共に大きなエネルギーを使うはず。
そのおかげで私みたいな人が笑ってストレス発散できるわけだから、感謝しなければ。
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2008年03月18日

穴の中への入り方

たしか小学生のころだったと思うんですけど、何かの小説にこんな場面がありました。冒険小説だったはず。
正確な文章は忘れてしまったけど、要約すると「こんな薄暗い、中にどんなものが住んでいるか分からない穴の中に、足から入っていくなんて考えるだけでも恐ろしい。だから頭から滑り降りるように、穴に入ろう」と、こういう感じ。

これを読んだとき、「へえ、そういう考えもあるんだなぁ」と思いましたね。どちらかといえば、暗い穴の中に頭から入るほうが怖いと思うけど。
この穴の中には、ものすごく凶暴な動物が住んでいる可能性があったんです。頭から穴に入ると、そのまま頭をガブッと食われてしまうことも考えられる。足を噛み付かれてそのまま地中に引きずられるのもかなりの恐怖だとは思うけど。

この考え方の違いは、なんとなく人生の縮図――とまではいかないけれど、生き方の縮図のような気がする(言いすぎ?)。未知のものを受け止めながら進むか、結果オーライですすむか、というところか?
それぞれにメリット・デメリットがあるから別にどっちのほうが優れているというわけではないけれど。単に頭が先か、足が先かという問題なので、いい時はいいしダメなときはダメ。

日々なにかしら選択しながら人は生きるわけだけど、重要な選択を迫られた時に(あるいはどうでもいいようなことでも)、どういう発想をするか。結果がどうであれ発想が大切なんだな、というのを最近感じた。
日ごろからモルヒネ的な、つまりその場しのぎの短期的な発想しかできない人は、人生のどのようなシーンでもそういう考え方しかできないみたいだ。結果的には同じだとしても、どんな発想をしたかというのは見る人は見てるものだし、いざという時にやっぱり出る。日ごろから気をつけたいものです。
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2007年12月18日

異国の世界観

■何かおもしろい本が読みたくて、本棚を探していたときのこと。
自分の本を置くスペースがあって、そこには買ったもののまだ読んでない本や、今はほとんど読まなくなった本が山積みになっています。
その一角に「クラウン独和辞典」という辞書を発見。独和辞典というのは、つまりドイツ語の辞書なわけで、なんで私の本棚にドイツ語の辞書があるんだろう?

それでちょっと記憶をたどってみると、そういえば大学1年のときドイツ語を履修していたんだっけ。すっかり忘れていた。グーテンタークとかマイン・ナーメ・イスト・ダダダとか言っていたのを思い出しました。あーなつかしい。
外国語は必ず2ヶ国語を履修しなければならず、そのうち英語は必須。残り1ヶ国語はドイツ語か中国語だったんですが、私はドイツ語を選びました。なぜかっていうとヨーロッパのほうが好きだから。


■独和辞典をペラペラめくっているとなんだかおもしろかったですね。使った形跡がほとんどなく新品同様なところが、私のドイツ語に対する思いを象徴していました(結局あまり勉強しなかった)。英語の辞書は受験のときに嫌でも使わなければならなかったので今ではうんざりしてしまいますが、なぜかドイツ語の辞書はリラックスして眺めていられる。
「ほー、こんな言葉があるのかぁ」と1時間くらい飽きもせず、あれこれ調べていましたね。
先日紹介したバカ姉弟の中に「外国語も方言と同じだと考えれば、勉強がしやすくなる」といったような話があります。
方言の延長線上に英語やドイツ語があるのだと思えば勉強しやすい、ということ。
たしかにそういうことはあるかもしれない。外国語はまったく違った言語というイメージがありますが、距離が離れて激しい方言になった結果だと思えば気分は楽だ。


■私は日本人なのでほとんどの場合日本語の本を読みますが、時々洋書を読むことがあります。
読みたい本が翻訳されていなかったりすることがありますし、人気の本は図書館で借りられなかったりすることも。
それに原書の雰囲気を味わいたいことも時々あります。
「そんなこと言ってるくらいなら、やっぱり一語一句理解できるのか?」と問われれば「そんなわきゃない」と答えるしかなくて。洋書を読んでもなんとなく雰囲気くらいしか分かりません。

原書で読むと作者の息遣い伝わってくる。どんなにうまい翻訳でも、一度日本語フィルターを通すとだいぶ違います。正確に理解できなくても、雰囲気をそのまま味わうのが好きなんです。
日本語で読むより何倍も時間がかかるし、目は疲れるし、デメリットは多いですがそれには変えられないよさがあります。


■日本語を読むように英語が読めるようになればいいなぁ、と最近思っているんですけど。
とにかく量をこなして(多読して)いけば、もっとサクサク読めるようになるのだろうか? 難しい本でも力技でガリガリ読んできたけど、もしかしたら実力に合わせてステップアップしていくほうが近道なのかもしれない。
英語で書かれた本は毎年、日本語のそれより何十倍・何百倍という数が出版されているそうです。英語で本が読めれば一気に読書の幅が広がるんだろうな。洋書を目の前にすると、つくづくそう思います。
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2007年12月16日

眠る星座と流星群

■ふたご座流星群はどうだったでしょうか?
きのう夜の9時ごろ一度外に出て空を見上げてみましたが、そのときはうすい雲が一面に広がっていて(京都では)、星を見ることができませんでした。
雲間からわずかに空が見えていたし、風が強かったので「たぶん、2時か3時くらいになれば綺麗な星空が見えるだろう」と判断し、一度家に戻り2時半頃もう一度外へ。

予想通り雲ひとつない星空が広がっていました。いや、よかったよかった。紹介しておきながら結局は曇りで見れませんでしたなんてことになったら、きまりが悪いですからね。
かなり綺麗に星が出ていました。オリオン座がチカチカ瞬いて見えて(これは空気の加減でそう見えるだけで、実際にはチカチカしていないと思います)、それがまた一層美しさを引き立たせていたようにおもいます。


■家を出て玄関の鍵を閉めるときになってふとおもったことは、「どこで見たらいいんだ?」でした。迂闊なことに、家の近所でもっともベストな星空を見ることができる場所を探すのを忘れていた。
しかたがないので、いつもジョギング中に通る公園へ行ってみることに。すると、公園の一角に外灯がなく暗くなっていて、しかも360度ぐるりと見渡せる場所があった! 意外にも一発でベストポジションをゲットできました。

その場所の真ん中に立ち、夜空を見上げること約3分。一つ目の流星が見えました。こんな寒い夜にわざわざ公園まで来たかいがありました。思わず笑顔になってしまいましたね。
今考えると1つ目の流れ星が一番はっきりと見えたようにおもいます。空気との摩擦で体を発熱させているようすが感じ取れる流れ方。苦し紛れに抵抗するような、奇妙な加速をしていました。何億年も宇宙を旅してきたものが、一つ消えたんだなぁ、と妙に感慨深いものがありました。
その後も2つ3つと立て続けに流星を見ることができて、かなり満足。
最終的に23の流れ星が見れました。


■今回のふたご座流星群はかなり”当たり”だったんじゃないかな? 午前2時半から3時半の1時間に23個見ることができたので、平均して5分に2つくらい。かなりお得な流星達だ。
で、流星はもちろん綺麗だったんですけど、星も綺麗だった。きのうだけじゃなく毎日星は見えているんだけど、流星とセットで見るとよけいに引き立って見える。刺身とツマの関係か? どっちがどっちだろう。
夜空を見上げていると、なんとなく小学校の音楽の時間に歌った「冬の星座」を思い出しました。

木枯らし途絶えて 冴ゆる空より
地上に降りしく 奇(くす)しき光よ
もの皆憩える しじまの中に
きらめき揺れつつ 星座は巡る


「こんな歌あったな」と頭の中で考えていたんですけど、私は最後の部分『星座は巡る』のところを『星座は眠る』と間違えて覚えていて、「星座が眠る――ってなかなかいい表現だな」なんて思っていました。
家に帰って調べてみたとき、実は『巡る』の間違いだと気付いて、なぜかむずむずしてしまった。道を歩いていて足首が”ガクッ”となったときのような、誰も見ていないのに恥ずかしい。そんな感じ。


■星空を満喫できたので、家に帰り服を着替えようと部屋にもどると、足元で「カタン……」という音が。そういえば家を出る前、ヒーターの前でお茶を飲みながら本を読んでいたんだった。
お茶を飲みながら。
そっと見てもしょうがないので一気に視線を足元に移すと、やっぱりコップが倒れてお茶が床にこぼれていた。
まあ、予想通り。本は助かったのでひと安心。
何かの本に「好機が訪れた後にはシーソーのように危機が訪れる」って書いてあったけど、まさにその通りだな。
でもそれは、今回の流星群がまぎれもなく好機だったってことを意味している。無駄じゃなくてよかった。
でも、「ふたご座流星群=お茶が床にこぼれる」っていう式は微妙だ。

夜空の星を見上げて物思いに耽る行為は、十代の後半にだけ許された特権のように思っていましたけど、そんなのは関係ないみたい。いいものは、いい。
星を見る機会なんてなかなかないから、これからは度々見てみることにしよう。
私の流星観測は床のお茶をティッシュで拭くという変なラストだったけど、ほかの人はどうだったんだろうか。


【外部リンク】
星の夢はこんな意味
http://www.clovera.sakura.ne.jp/yume/yume-shizen.html
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2007年11月27日

歩き続けた男の話

■知ってのとおり(知らないかも?)、私は夢占いのサイトをやっているので、普段から自己夢診断をやるために自分が見た夢を記録しています。つまり、夢日記。
で、今日も夢を見たんですけど。
夢は、普通実際の出来事がそのまま現れることはありません。断片的に、いくつかの要素が絡まって現れます。でも、今日見た夢は実際に体験したことが、ほとんどそのまま夢の中に登場しました。


■これは、実際に体験したこと。
私が小学生だった頃。たしか3年生だったな。
担任の先生(体育会系で、ガッチリした人だった)が、教室に入ってくるやいなや、教壇で「歩き続けた男の話」を始めました。
特に前ぶれもなく、かなり唐突に。


【歩き続けた男の話】

ある男がいました。
ある男は、ある日、前から好きだった女性に愛を告白しましたが、願いは叶いませんでした。
そして、ある男が家に帰ると、ある男の家族は強盗に襲われ死んでいました。父も母も兄弟も、みんな血まみれで倒れていました。
ある男はもう何も感じませんでした。

ある男は、その日からひたすら歩き続けました。
雨が降っても、嵐がおとずれても、まっすぐ前を向いて歩き続けました。何も食べず、何も飲みませんでした。
そして、何も感じませんでした。
ある男にとって、過ぎていく風景も、周りで起こる出来事にも、なにも感じませんでした。
ある男は入れ物でした。一歩前へ進むたびに、過去にその場所で起こった出来事を感じ、その場所の空気を取り込み、人々の視線を感じました。そういったものが取り込まれ、次の瞬間にはもう流れ出していました。

ある男が月を30回見た夜、ついに歩けなくなりました。
近くにある小川から、手で水をすくって飲みました。すると、ある男は家に帰りたくなりました。
しかし、ある男の足はもう動かず、その場で死んでしまいました。


■こういう話。
できるだけ記憶を掘り起こし、先生が語ったとおりに書きました。
この話には、原作があるんだろうか?それとも先生のオリジナル?

この話が終わった後、何もなかったかのように先生は授業を始めました(たしか算数だった)。
一体何が言いたかったんだろう?
今、読み返しても意図がよく分からないのに、当時小学校3年生の私には分かるはずもない。友達もみんな「あれ、なんだったの?」と言っていたのを覚えていますね。

私がこの話を聞いて印象に残ったのは、男のことを毎回”ある男”と繰り返すところ。それと、”ある男は入れ物でした”という言葉。水を飲んだのに足が動かないっていうのも、ちょっと違和感が・・・。
まあ、全体的に破滅的で、それだけでも印象に残ったんですが。


■しかし、なぜこの話が夢にでてきたんだろう?
子供の頃に聞いた、この「歩き続けた男の話」は、ずっと心のどこかに引っかかっていたのかもしれません。
普段は思い出すことなんてないんだけど・・・。もしかしたら、何か意味があるかもしれない。でも、今の私にはこの話が自分にとってどういう意味があるのか分からない。
できれば、この話についての感想をいろんな人に聞いてみたいものです。

余談ですけど、この話をした先生はすでに退職していて、現在の趣味はウォーキングなんだとか(同級生から聞いた)。
関係あるのかな。
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2007年10月30日

期限を決める

■どんなことでも、終わりは自分で決めることが大切。
昨日も話したとおり、私は150歳まで生きようと本気で思っています。
150までとは言わず、できることならもっと長く生きていたい。
孫より長生きするくらい。

平均寿命なんて考えずに、自分が何歳まで生きるのかは自分で決める。
そうすれば、たとえ80歳になっても「私の人生は、あと少しだ・・・」なんていう後ろ向きな発想をしなくてすみます。
後ろ向きな考え方というのは、何をどうひっくり返してもデメリットしか生み出しませんからね。


■この「終わりは自分で決める」っていう考え方は、日常の色々なところで使うことができます。
たとえば、何か仕事を任されて、いつ終わるか分からなくても、「明日には終わらせる」と考えていたら本当に終わらせることができたりする。

2ヶ月後には、タバコをやめているとか、半年後には10キロ減量しているとか。
他にも、「この憂鬱な気持ちは、明日になったらなくなっている」など心理的なものでも。
そういう風に、自分で期限を決めて取り組むことは、物事を効率よくすすめるのに大切なことだと思います。

別に、この期限には根拠なんてなくていいんです。
なんとなく、明日中に終わらせたいから、自分で明日中に終わらせるという、一種の自己暗示をかける。
はっきりと目標が定まるから、作業がやりやすくなるのかもしれません。


■先日風邪をひいてしまった私ですが。
昨日、「この風邪は明日には治っている」と決意していたところ、本当に今日はほとんど全快でしたよ!

自分で期限を決めていけば、どんなに先の見えないことでも結構サクサクと終わらせることができるものです。
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2007年10月22日

チームワークとは、生まれるものだ!

■寝る前に、その日にあったこととかを思い返す人は多いと思います。
特に意識的にやっているわけではなくても、なんとなく思い出してしまう。
今日あったことでなくても、なんとなく何かを思い出すことっておおいなぁ。。。


■この前、メジャーという野球の漫画の一場面を思い出しました。なぜか。
たしか、まだ全然荒削りのチームで、コーチもいないようなときだったんですけど。
主人公以外の仲間は、チームワークが大事と言いつつ、ちょっと馴れ合いみたいになっていたんです。
でも、その状況に主人公(たしか茂野吾郎)は疑問を持っていて。
他の仲間は、そんな主人公がチームワークを乱している、と彼を責めます。

そこで、茂野吾郎は一言。
「チームワークは作るものじゃない!生まれるものだろ!」
ちょっと言葉は違うかもしれませんが、ようするにこういうことを言ったんですね。


■なるほど。
作るものじゃなくて、自然に生まれるものか。
チームワークに限らず、人間の心理・心って生まれてくるものであって、作るものではないと思う。

そりゃ、やる気が出ないときとかに、無理やりモチベーションを高めてやる気を作り出す、なんていうのはいいと思いますけど。
基本的に、感情とは生まれるもの。
個人に限らず、集団でもそうですね。

テレビとかを見ていると、どうも感情を作っているように感じることが多い。
もちろん、バラエティとかはしょうがないですけど。
ニュースとかワイドショーとか、そういうものに作られた感情はいらないと思う。
それに、不安や哀れみを誘うような表現も嫌い。
特に、哀れみを誘うような表現は、時に人間の尊厳を傷つけることもありますし。
そういう感情を作らせようと誘う表現は止めてもらいたいものです。
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2007年10月18日

ケンカ哲学

■私の叔母は、小学校の先生をやっているのですが。
少し前、私の自宅に遊びに来たときに、こんなことを言っていました。

「最近の子供は、ケンカをしない」

そのときは「ふーん」と思って聞いていましたが、よく考えてみると興味深いことですね。
もう、何十年も教師生活をしている人の現場の声なので、恐らく間違いないと思います。

■私が子供の頃には、結構ケンカはあったものです。
それでも、私の親の時代に比べると、かなり少なかったらしい。

今でもケンカはある程度は起こるらしいですけど、でも私達の時代でいう正統派なケンカ?は少なくなってきているとのこと。

■で、ちょっと話は変わって、先日古本屋で「ケンカ哲学」という本を見かけました。
ちゃんと読んだわけではないし、買ってもいません(笑)

でも、背表紙のところにおもしろいことが書いてありました。
正確な言葉は忘れてしまいましたが、たしか「私のところに、ケンカの方法を習いに来る人がいるけど、君たちはケンカしてまでやりたいことがあるのか?と思う」とか、そういうことが書いてあったんですね。
(一冊読まなくても、一文にアンテナが引っかかって新しい発見をするのも、本を読む醍醐味!)

なるほど。
最近の子供がケンカしないのは、ケンカしてまでやりたいこととか、主張したいこととか。そういうことがなくなってきたからなのかなぁ、と。

■ケンカって、たとえ子供でも感情のぶつかり合いとか、高ぶりとか、そういうものがあってこそのケンカだと思う。
そういうものが、ちょっと足りなくなってきているのかな?

これは、別に子供に限ったことではないですけど。
気合とか情熱とかが、全体的に足りなくなっている気がする。
気合だけで何とかするのは、あまりいい方法ではないと思うけど、でも最終的には、やっぱり気合だ!気合だ!気合だ!ということですから。

■大人になってから、殴り合いのケンカをするのはちょっとダメですけど。
でも、やっぱり気合とか情熱が心の奥底にある人。コアの部分が熱い人が集まるところでは、やっぱりケンカが起きると思います。
大人になっても。

心の奥に、熱いものを秘めた人は、なんというか「大人のケンカ」ができているように思いますね。
サバサバしていて、自分の主張はちゃんとするけど、でも暴言を吐くことはないし、終始冷静。
そういう大人のケンカができるひとは、とても魅力を感じるなー、と最近思っているのでした。
今日のオススメ本
posted by タチバナ at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理

2007年10月15日

イチロー心理

■昨日、久しぶりにテレビで野球を見ました。
中日VS阪神。

実は、元野球少年なのですが、中学では陸上部に入ったので、小学校以来野球はやっていません。
それと同時に、野球はほとんど見なくなってしまった。
小学校のときは、ほとんど毎日見てたんですけどねぇ。

■で、昨日野球を見ていて思ったんですけど。
バッターが三振とか凡打になると、ベンチに戻るとき必ずと言っていいほどピッチャーのほうを振り返るんです。
いかにも「やられた・・・」という感じで。
この”感じ”というのは、パッと見そういう風に見えるということで、実は違うかもしれませんけど。

今度野球を見ることがあったら、ぜひこのへんも見ておいてください。
ほとんどの場合、ピッチャーを見ます。

しかしですね。
たとえ三振しても、凡打になっても、決してピッチャーのほうを見ない人もいるんですよね。

誰かというと、それはイチロー。
イチローは、結果がだめでもピッチャーのほうを振り向いたりしません。
前を向いたまま、ベンチに帰ります。
例外として、判定に不服があったりした場合には振り返ることもあるようですが。

■イチロー選手にとって、打席での結果というのは自分との戦いなのかな?と思いました。
普通、打ち取られたら、それはピッチャーに打ち取られたと思うのが普通ですけど。
でもイチロー選手は自分に負けたから打ち取られた、というスタンスなのかもしれません。

だから、凡打になってもそれはピッチャーに負けたわけではなくて、自分がミスったということ。
だから振り返らないのかな、と。

■イチロー選手の心理や考え方に関する本は、かなり多く出版されています。
何冊か読んだことがありますが、その中の1つに「イチローは本気で10割打者を目指している」というページがあったのを覚えています。
そして、もう1つ印象的だったのは、「イチローは、単純に野球がうまくなりたいと思っている」というもの。

うまくなりたい、10割打者になりたいと本気で思っている人は、やっぱり一打席ごとに自分を分析して、自分と戦うという姿勢が必要なんでしょうね。

とまあ、これは私の予想なので、実際のところは分かりませんけど(笑)

■イチロー選手には、人間として見習うべきところが沢山ありますね。
数え挙げればきりがないほど。

イチロー選手については、まだまだ書きたいことがありますが、それはまた後日。
posted by タチバナ at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理